この学園には、グラウンドとは別に野球場がある。
 野球部が強豪だとしても、一つの学園にグラウンドと野球場が別に存在している所なんて、そうはないだろう。さすがは、総生徒数二千人強のマンモス校だ。
 今は授業中だが、幸い、野球場で体育の授業は行っておらず閑散としている。邪魔者もいなくて、勝負するにはもってこいの状況だ。
 俺たちが野球場についてから十五分くらいした頃に、日向が表れた。
 「おせぇよ日向」という藤巻の文句も気にせずに、日向がにこやかにこちらへ歩いて来る。
 「悪いな。ちょっと探すのに戸惑っちまってさ。けど、ちゃんと連れてきたぜ。あいつだ」
 日向がベンチの方を指さし、俺たちは視線を向ける。高いフェンスに囲まれた球場へと入るいくつかの入り口の一つ、ベンチ裏の扉から、一人の女生徒が入ってくる。
 肩に掛かるショートヘーアーに、右側頭部に印象的なリボンを結った、不機嫌そうな顔を浮かべた少女。
 「ゆ、ゆり……?」
 俺の漏らした声に、ゆりが横目で俺を見る。その後ろからは、遊佐も入ってきた。
 「この二人が審判だ。どちらのチームにも所属していない戦線メンバー。適任だろ?」
 日向が二人を紹介する。確かに二人とも条件に合ってはいるが、リーダーを連れてこようとは、予想外だった。
 「めずらしい面子ね。それで、これから何をしようってのよ」
 ゆりが俺たちを眺めながら訊く。まさか日向、内容を説明せずに連れてきたんじゃ……。
 「何をしようって、ここは野球場だぜ? 野球するに決まってんだろ!」
 日向が白球を掲げ、ゆりに差し出した。
 「はぁ? あなたまさか、メンバーが足りないのを理由にあたしまで参加させる気じゃないでしょうね」
 「違うって。ゆりっぺにやってもらうのは、野球の審判だよ。もちろん遊佐もな」
 そう言って、日向が事の発端と試合内容をゆりと遊佐に説明する。遊佐は相変わらずの無表情で説明を聞き、ゆりは説明が進むにつれて、眉をしかめる。
 「……というわけなんだが、やってくれるよな。ゆりっぺ」
 「帰る」
 一言だけ残し、ゆりはベンチへと歩き出した。
 「待ってくれよ、ゆりっぺ。もうお前以外に頼れるやつはいないんだよぉっ!」
 日向がゆりを足止めしようと、言葉通りに足にしがみつく。「ちょ、ちょっと! どこにしがみついてんのよ、この、このっ!」とゆりがもう一方の足で、げしげしと日向を踏みつけるが、日向は諦めない。このままだと日向が不憫なので、仕方が無く俺がゆりの方へと近づいていき、
 「頼むよ、ゆり。俺たちだってメンバーを集めないと試合ができないし、審判がいなけりゃこの話も収まらない。他に適任がいないんだ。あまり時間は取らせないから、俺たちに付き合ってくれないか?」
 ゆりは最後の一降りで日向を蹴り飛ばすと、腰に手をついて考える。
 「この勝負って、要するに岩沢さんとひさ子さんを賭けて戦うのよね」
 「そうだ。どちらも戦力になるからな」
 そう、とゆりは言い、ひさ子と岩沢を見た。そして、俺へと視線を向ける。何を思っているのか分からないゆりに見つめられ、俺は身動きがとれなくなる。何もかも見透かされそうな黒い瞳。やがてそれは、地面へと落とされ、はぁ、とゆりはため息をつき、
 「……わかったわよ」
 渋々と承諾した。なにがわかったのかは知らないが、とりあえず、役者は揃った。
 その後、日向と高松がじゃんけんをして、先攻と後攻を決める。俺たちは後攻。さっそく、投手である俺の出番だ。
 藤巻がバットを持って、素振りしながら打席へと向かい、日向がボールとキャッチャーミットを左手で持ち、右肩を回しながらホームベースへと向かっていく。俺もそれに続いてブレザーを脱いでベンチにかけ、ピッチャーマウンドへ向かうが、
 「はい。これ忘れちゃ意味ないだろ」
 背中を柔らかい物で叩かれた。振り返ると、岩沢が俺に向かってグローブを差し出していた。ピッチャー強襲やゴロもありえるから、グローブを忘れるわけにはいかない。
 岩沢からグローブを受け取る。
 「ありがとな。行ってくる」
 「待って、音無」
 歩き出そうとした時、ワイシャツの裾を掴まれた。岩沢が上目遣いで俺を見つめる。
 「私はどっちが勝ってもひさ子と野球ができるからいいんだけどさ、どうせなら、あんたとも一緒にやりたい。ひさ子も音無も揃って、日向もユイもいて……。それってすごく楽しそうだと思うんだ。だから……」
 「そうだな。だから俺が勝って、お前の夢、叶えてやるよ」
 そう約束して、岩沢の額に手を置く。岩沢がくすぐったそうに首を振ると、それを合図に俺はピッチャーマウンドへと向かった。
 約束してしまったからには守らなければいけない。
 得点は日向任せだが、俺は投手だ。要するに相手に一本もヒットを打たさなければ負けることはない。そうすれば、いつかは日向がヒットを打ってくれる。だから今、俺のやることは完封すること。それだけだ。
 「プレイボール!」
 ゆりが手を上げて高らかに宣言。その背後には、球場全体を見回す遊佐の姿。ゆりの手前で、日向がミットを構え、その右前にはバットを構えて笑みを浮かべる藤巻。
 日向がミットで投げる場所を指示する。ど真ん中よりやや内角低めの位置。俺はゆっくりと息を吐いて脱力し、構える。
 左足を上げてから地面を滑らせ、腰を落とし、右膝が地面に着かんばかりの体勢で、地面スレスレの高さから球を放った。
 乾いた音と共に、それは日向のキャッチャーミットに収まった。
 「ストライク!」
 球審のゆりが告げる。打者の藤巻は身動き一つとれずにいた。
 「いいぜ、音無。球が走ってるじゃねぇか。次もその調子でいこーっ!」
 日向が楽しそうに叫び、俺へと球を返した。
 二球目。さっきと同じ感触の投球。やや高めの球だったが、藤巻はそれ以上の高さでバットを振っていた。ツーストライク、ノーボール。
 三球目。日向は外角低めを要求。俺がそこに投げ入れ、ギリギリストライクゾーンに収まり、見逃し三振。チェンジだ。
 「ちっ……。サブマリンってのはやりずれぇな、くそ」
 藤巻がぼやき、日向からキャッチャーミットを受け取って、座る。それと同時に日向がバットを拾い上げて素振りを始める。攻撃時に用済みの俺はベンチへと戻っていき、ピッチャーマウンドへと向かう高松とすれ違う時に、グローブを手渡した。
 「おつかれ。絶好調だな」
 ベンチに座っていた岩沢が俺を迎え、その隣にいたひさ子が「あんた以外といい球放るんだな。見直したぜ、新人」と賞賛する。それほどでもないんだけどな。
 俺もベンチに座って日向の打席を見守る。
 そういえば、今回の投手は藤巻じゃないらしい。前回の球技大会では、藤巻がチームの投手を務めていたはずだ。それなりにいい球を投げるとも聞くし、なぜ藤巻ではなく高松がピッチャー? 手を抜いているのだろうか。それならそれで、こちらがその余裕を叩き折ってやるだけだ。
 「よっしゃ、いけぇっ! ひなっちせんぱーい!」
 俺の背後から、ベンチに足をかけて立ち上がり、ユイが叫んだ。日向は横目でこちらを見て、微笑むと、再び視線を投手へと戻す。
 「さっさとデッドボール喰らって帰ってこいやーーーーーー!!」
 「お前は応援する気があるのか、無いのか、どっちだよっ!」
 日向が打席から声を飛ばす。ユイが珍しく日向の応援をしていると思ったら、結局はこれか。
 「……プレイ」
 ゆりが二人の漫才に呆れてゲームを再開した。
 高松がスローイングを始める。オーバースローから放たれた球。日向は微動だにせず、それを見送る。ゆりがストライクのコールを上げた。
 二球目。高松が投げ、外角高めの球をまたもや日向は見送り、藤巻がミットに納める。ツーストライク。追い込まれた。
 「どうしたよ、日向。高松の球にびびっちまったか?」
 藤巻の挑発に、日向は「いや……」と声を漏らし、構えて投手を見る。
 高松が三球目を放る。内角低めのコース。日向は笑みを浮かべ、左足を上げる。
 「そんな球で俺を抑えようっていう考えが……甘過ぎんだよっ!」
 カァンッ! と金属バットが白球を叩く音が響いた。球は青空へと吸い込まれていく。三塁線の上を飛び、打球はフェンスを越えてファールゾーンへと突き刺さった。
 「ファール!」とゆりが叫ぶ。高松は唖然として、球が飛んだ先を見続けていた。
 「その程度の球だったら、次はフェアゾーンにたたき込むぜ」
 日向は得意げに言い、構える。さすが日向だ。そこそこ速い球だとは思うが、やはり野球経験者である日向の敵ではない。
 四球目、五球目とボール球が続く。日向はそれを冷静に見送り、ツーストライク、ツーボール。
 六球目。高松が投げる。球は――さきほどとは違い、山なりの遅い球、チェンジアップだ。落差が大きい。
 「むぉっ!? くそっ」
 まぬけな声を上げた日向が、崩れた体制から球を捕らえる。打球はゴロ。ショート真正面へと転がっていった。
 「アウト。ショートゴロです」
 打球の行方を判断する遊佐がそう告げ、日向が「ちっくしょおっ!」と嘆いた。
 再び攻守交代となり、俺がピッチャーマウンドへと向かう。ホームベースにさしかかったところで「アホ日向」と声をかけてやる。
 「……次だ。次こそは絶対ヒットを打ってやる」
 日向が呟き、二回表。藤巻チームの攻撃が始まる。
 「音無! 気を取り直していこうぜっ!」
 日向が俺を激励した。気を取り直すのはお前だ。ボケて後逸すんなよ。
 一球目を投げる。ストライクゾーンを大きく外れてボール。二球目は内角気味の真ん中。コースは甘いが、藤巻は空振りする。
 三球目。内角の低め。またも藤巻のバットが空を切る。ツーストライク、ワンボール。追い込んだ。
 四球目。投げた時に嫌な感触が走る。感覚通り、球はど真ん中やや低めの甘いコース。
 「もらったぁっ!!」
 藤巻が猛り、バットの芯で捕らえた。打球は低めのライナー。俺の左を抜けて、外野の右中間に転がる。記録は……!?
 「アウト。セカンドライナーです」
 遊佐が判定する。俺は胸を撫で下ろした。心臓に悪い……。
 「ちょっと待てよ。ありゃあ、明らかにヒットだっただろうがよ!」
 微妙な判定に、藤巻が抗議する。遊佐は冷静に、
 「全盛期の辻なら取れました。アウトです」
 どんだけ判定厳しいんだよ。つーか、遊佐の頭の中では、どんな歴代選手達が守ってるんだ。
 「次に遊佐さんの判定にケチつけたら、無条件で負けにするわよ。ほら、さっさと守備につきなさい」
 ゆりが藤巻を叱咤し、「そんなんアリかよ……」と文句を呟きながら、藤巻が捕手の定位置についた。
 二回裏。俺たちの攻撃だ。日向が打席につき、構える。
 高松の一球目。日向は初球で捉えた。一塁ベースの数センチ先に球が落ち、ファール。
 二球目。またチェンジアップだ。前の打席ではこの球にやられた。しかし日向は姿勢をしっかり保ちミートする。打球は後ろに反れ、バックネットに当たった。ファールだが、タイミングは合ってきている。
 三球目はストレート球のボールコース。日向は冷静に見送る。
 四球目。ストレート。日向が外角気味の球を力づくで引っ張る。三塁線から外れ、フェンスに打球が当たり、ファール。
 「球の速さはそこそこだけど、落差のあるチェンジアップのおかげで生きてるな。けど、もうどっちも通用しないぜ……?」
 日向がにやり、と笑う。ストレートとチェンジアップ。どちらが来ても、日向は次に捉えるだろう。
 カウントでは日向が追い込まれているが、実際に追い込まれているのは高松だ。しかし、高松は不敵に笑い、
 「なるほど。あなた相手に私の球では通用しないようですね」
 「悪いな。さっさと決めさせてくれ」
 「生徒会チームとの決戦まで残して起きたかったのですが、仕方がない。実践練習がてら、試させてもらいますよ」
 「……なに言ってんだ、お前?」
 日向が怪訝な顔を浮かべ、藤巻が意味深にうなずく。何が始まるっていうんだ?
 高松がピッチングモーションを始める。投げられた球種は――チェンジアップだ。さっきよりやや遅い山なりのボール。
 日向もそれを待っていたと言わんばかりに、バットを振り始める。タイミングはばっちり。打ち損じるはずはない。が――、
 「ストライク! バッターアウト」
 ゆりの声が閑散とした野球場に響いた。
 球は藤巻のミットに収まり、日向は空振りしていた。俺は思わず立ち上がる。
 「どうしたの、音無?」
 隣に座っていた岩沢が俺に尋ねた。
 「いや、なんでもねぇ……」
 そう言って、はぐらかした。なぜ立ち上がったのか自分でも分からない。
 攻守交代の時に、打席で呆然と立ち尽くしている日向の元へ歩み寄る。
 「なにやってんだよ、日向。絶好球だったじゃないか」
 俺に声をかけられ、ようやく日向が我に返る。
 「悪い、打ち損じたみたいだ……。次は、絶対当てるよ……」
 「日向……?」
 交代だ、と言って、日向は俺の肩を叩いた。
 藤巻と高松も、ピッチャーマウンドとホームベースの中間点で何かを話し合っていた。藤巻は勝ち誇った笑みで、高松に言う。
 「もう完成してんじゃねぇか。これなら生徒会の野郎共にも通用するぜ」
 「ええ。でもまずは、この試合に勝ってからですね」
 そして、球審であり我ら戦線のリーダーでもあるゆりは、高級ディナーを前にしたような恍惚とした表情を浮かべる。
 「いい切り札を持ってるじゃない……。これはおもしろくなりそうね」



 続く、三回、四回、五回は投手戦が続いた。
 正確には、俺は二度打たれた。しかし、運良く凡打が続き得点とならず、ギリギリの投球で乗り切った。
 しかし、こちらの攻撃では、日向は高松の投げるチェンジアップに手が出ず、三振の山を築いた。一度だけ球を捉えたことはあったが、サードゴロだった。
 そして、六回表。俺はどうにか藤巻を打ち取り、安堵の息を吐く。今までノーヒットだったのが奇跡だ。これ以上抑えられる自信がない。
 俺は高松にグローブを渡して、ベンチへと戻っていく。岩沢とひさ子に迎えられる中、背後から日向の声が上がった。
 「……タイムだ」
 日向は片手を上げてゆりに告げた。ゆりは「好きにしなさい」と文句を言わずに承諾する。藤巻にキャッチャーミットを手渡すと、日向はおぼつかない足取りでこちらへと歩いてきた。
 やがて、ベンチに倒れ込むようにして座り、呟く。
 「……音無。今の俺は、正常な状態に見えるか?」
 見えないね。俺は今まで、お前を正常な状態として見たことが一度も無い。
 「そうかよ……。いつも通りだってんなら安心だ。じゃあ俺がおかしいんじゃなくて、あの球がおかしいんだよな……?」
 「何言ってんだよ。さっきからチェンジアップに三振ばかりじゃねぇか。やる気あんのか?」
 「それがただのチェンジアップじゃなかったとしたら、どうだよ……」
 「なんだって……?」
 ベンチにもたれかかっていた日向が、ゆっくりと身体を起こす。ゆりと遊佐が待ち、ピッチャーマウンドで藤巻と高松が話し合っている球場を見て、それから顔を俺へと向けた。
 「俺も最初はただのチェンジアップかと思ってたさ。でも実際は違った。あの球は打者の手元で落ちる変化球だ」
 日向はそう断言する。実際にその球を経験した日向が言うのなら間違いはないだろう。しかし、三打席も同じ球を投げられて一度もヒットが打てないほど、日向は野球下手ではない。
 そうなると、高松の変化球に、日向が打てないほどの秘密があるのだろうか。まさか、打者の手元で姿を消す、消える魔球とか、球が五つや六つに見えるという分身魔球とか、そういった類じゃあるまいな。マンガじゃあるまいし。
 だが、ここは死語の世界だ。立華の様な特殊な存在がいるのだから、そういった魔球が存在していてもおかしくはない。
 俺だって特訓すれば、百発百中で打者の構えたバットにボールを当ててフライに打ち取るような魔球だって習得できるのかもしれない。もちろん、そんなものを習得する気など毛頭ないが。
 「それで、お前が見出した球種はなんだったんだよ。フォークか、カーブか、シンカーか?」
 「そのどれもだ」
 日向が呟く。どういうことだ。まさか、高松は同じ投球フォーム、同じボールの軌道から三種類(チェンジアップも入れれば四種類か)の球を投げ分ける技術を身につけていたというのか。
 筋肉バカのくせに、小手先に頼りやがって。まともに直球勝負しやがれってんだ。
 「……いってくる」
 日向がそう告げて、打席へと戻っていく。各自ポジションについた事を確認した後、ゆりがプレイボールと宣言した。
 六回裏。日向にはここで打ってもらいたいところだが、先ほどの状態を見るからに期待は出来ないだろう。
 一球目はさっきと同じチェンジアップで空振り。次もホームベース手前でバウンドしたボール球を振ってしまい、あっという間にツーストライクだ。何やってんだ、あいつは。
 どうせ次の球で終わりだろうと、立ち上がって準備を始めた俺に、
 「新人なら分かるんじゃないのか。あの球の正体」
 ベンチに座って腕を組んでいたひさ子が、俺に訊いた。
 「バッターからは見抜くことができない、あるいは日向のやつが、自分だけそう錯覚していて、それを否定している事実があったりするのなら、外野のあんたが見極めてやらなきゃいけないんじゃないのか? それが実際に存在する球種なのか。それとも本当に物理法則をねじ曲げた魔球なのかを」
 ひさ子が鋭い目で俺を睨む。見抜く? 俺が?
 そうこうしている内にもゲームが続く。高松が投げた球は、日向の顔の高さへと外れたボール球だ。日向はバットをピクリと動かすも、見送ってボール。
 「日向! バットを短く握って当てていけ!」
 俺が叫んで支持する。日向は頷くと、グリップエンドから拳一つ分空けて、バットを短く握り直す。
 高松の投球。再びチェンジアップ。日向はギリギリまで引きつけてバットを振る。遅れ気味のタイミングで球を捉え、ボールは一塁線を大きく反れてファール。
 「……ねぇ、今球が揺れなかった?」
 ひさ子の隣に座っている岩沢が、ピッチャーマウンドを指さして呟いた。
 「球が揺れる? んな馬鹿なことがあるか。見間違いじゃないのか」
 「違うよ。確かに揺れた。次の球見てみな」
 俺の疑いを突き返すように、岩沢が促す。
 高松がピッチングモーションに入る。俺は目をこらして球筋を見つめる。高松が投げたのは同じくチェンジアップで、コースは外角の低め。日向はじっくりと見定め、球を見送った。
 「ボール!」
 ゆりが宣告する。球は軌道を変えてカーブ方向へと落ち、ストライクゾーンを外れたのだ。さすが日向だ。よく見送った。そして件の球筋はというと……。
 「……確かに、今かすかに揺れたな」
 数ミリ程度の動きだが、普通の球ではありえないブレかたをしていた。遠く離れたベンチから見えるのだから、バッターボックスに立っている日向にはもっと鮮明に見えるのだろう。
 タイムをかけた時の、日向の奇妙な言動はこのせいか。本人は揺れる球を目の錯覚として捉えていたのかもしれない。
 だが実際には違う。確かに球は揺れている。
 続く、高松の投球。相変わらずの揺れるチェンジアップだ。日向はバットを振らずに見送る。
 「ストライク! バッターアウト」とゆりが叫んだ。見逃し三振だ。
 日向はバリバリと頭をかき、悔しそうな素振りを見せ、捕手の藤巻にバットを渡す。日向がキャッチャーミットを受け取ったあたりで、俺は手を上げて、
 「タイムだ! 日向!」
 手首を振って、日向を呼び寄せた。日向はミットを地面に置いて、ベンチへと向かってくる。
 「どうしたんだよ、音無。交代だぜ」
 「んなこた分かってる。それより、あの変化球の正体が分かったんだよ」
 「本当か。教えてくれよ」
 日向が俺を見つめて訊く。遅めの揺れる球筋で、フォーク、カーブ、シンカーのどの方向にも落ちていく球。その正体は――、
 「ナックルボールだ」
 ナックルボール。ストレートと呼ばれる普通の速球はバックスピンで投げられ、その回転によって球に揚力が作用し、直線に近い軌道を描く。キレのあるストレートはバックスピンが多ければいいとされ、カーブやスライダー等の変化球も回転数が多ければ、その分キレが増す。球が回転する方向と軸によって軌道が変わるのが、変化球だ。
 しかし、例外もある。フォークやパームといった、少ない回転数で落ちる球だ。それらの球は空気抵抗を受けて大きく落ちるため、回転が少ないほどよいとされる。
 そうした少ない回転数の落ちる球種で、もっとも回転数を少なくしたものがナックルボールだ。
 リリースされてからホームベースまで、僅か一回転するかしないかの回転数で放たれたボールは、空気にぶつかる縫い目の位置が不規則に変化し、その縫い目と空気抵抗によって球の軌道が不規則に変化する。左右に揺れたり、果ては浮いたり沈んだりと、通常の変化球からは考えられない変化を引き起こすため、現代の魔球とまで呼ばれているようだ。
 そんなものを高松が会得していようとは……。俺だって実際に見るのは初めてだ。
 「ナックルボールか、なるほどな……。粋なものを隠してたもんだぜ」
 そう言う割には、日向はあまり驚いていないようにも思える。
 「だいたい予想はしてたさ。けど、予想してたからって、そう簡単に打てるもんじゃねぇよ。なんたって、世界中を探しても、まともに投げられるやつは数人ってくらいの球だからな」
 「それでも、打ってもらわなくちゃ困るんだよ」
 「分かってる。んじゃ、音無。次も抑えていこうぜ」
 日向は俺の腰を叩いて、ホームベースへと走っていく。
 ナックルボールは、科学的にも証明され、過去に何人もの偉人が投げてきた球だ。魔球といえど、マンガに出てくるような非科学的な架空の球ではない。
 だが、簡単に打てない球であるのは事実だ。日向はなにか策でもあるのだろうか。





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