「――音無。おい、音無」
「ん、うぅ……ん?」
身体が揺さぶれれる。意識がもうろうとして状況が判別できない。
かすかに目を開けると、カーテンの隙間から射し込む日光が俺の瞼に突き刺さる。
そうか、もう朝か。
「……いま、なんじ?」
「もうそろそろ七時半。さっさと起きなよ」
岩沢の冷静な声が聞こえ、俺は判然としない意識のまま、赤さびがこびりつくギヤを力任せに動かすように、考え始める。
確か寝たのが午前四時前。そして今は午前七時三十分。
げ、三時間半しか寝てねぇじゃん。
人間というものは、最低六時間は寝ないと日中の活動に支障をきたすと言われる。医学的にどうかは知らんが、俺自身の睡眠時間の最低ラインは六時間だ。
つまり、
「……寝る」
再び毛布を頭からかぶり、夢の世界へと――、
「こら。寝るなって。早く起きないとせっかく作った朝ご飯が冷めちゃうぞ」
「あさ……ごはん?」
そういえば、言われてみればいい匂いがする。
正体は分からないが、よくだしが取れていそうな味噌汁の匂いと、焼き魚の匂い。その匂いに釣られて、俺のお腹がぐぅ、と鳴る。
だが、その食欲をも押さえつけるように眠気が体中をむしばみ、異様に身体が重い。まるで俺の上に何かが乗っているようなほどだ。
そして、俺を床に押さえつける様な重いなにかが、もぞり、と動いた。
ん? 動いた?
俺はようやく瞼を開き、真っ先に映り込んだ天井から自分の身体の方へと首を起こしながら視線を向ける。
そこには、俺の身体の上にどかり、とマウントポジションで乗っかっている岩沢の姿があった。
「……なぁ、岩沢」
「なに? 目が覚めた?」
「お前、何してんの」
「何って……。あまりにもあんたの目覚めが悪いもんだから、こう、乗っかっていたずらでもしようかなって思ってたんだけど」
満面の笑みで岩沢が笑う。
俺の上に乗っかる岩沢は、白を基準とし、淡い青色の襟と桃色のスカーフに、肩口には我ら死んだ世界戦線を象徴するエンブレムが縫い付けられているセーラー服と、襟や袖と同色のプリーツスカートをまとっており、いつも通りの格好をしていたのだが、そのセーラー服の上にベージュのエプロンを着ていた。
つーか、身体が異様に重かったのはお前のせいか。
俺は岩沢を払いのけるように勢いよく身体を起こす。
岩沢は「ぅわっ!?」と驚愕の声をあげ、勢いよく背中から転がり落ちた。
そのまま、俺がかけていた毛布を岩沢の上へと被せる。
見事に、両足の太ももから上が全て毛布で覆い被さるという異様な状態になり、数秒もがいた後、ようやく岩沢が毛布から顔を出した。
「さ、朝飯にしよーぜ」
「あんた、朝から元気な」
お前には言われたくない。
毛布を片付け、円形の座卓を出し、俺が洗面所で歯ブラシ(もちろん来客用のやつ)と洗顔を済ませて再び部屋に戻ると、食欲をかき立てる匂いと共に、朝食が二人分、机の上に並べられていた。
では、この音無リポーターが、校内の人気ガールズロックバンドのリーダー兼ボーカルである岩沢宅の朝食を発表しよう。
もうもうと湯気がたつ、熱々ほかほかの白米。わかめ、豆腐、油揚げ、大根が入ったオーソドックスな白味噌の味噌汁。小皿に入ったレタスときゅうりの上に半月切りのトマトが乗せられ、その上から和風ドレッシングがかけられたサラダ。平皿の上には赤い身にわずかな焦げ目がついた鮭が一匹と完熟のだし巻き卵が二つ。
まさに、誰が見ても明らかな日本人の朝食といったメニューだった。
卓上の二つのコップにミネラルウォーター注いでいた岩沢が、
「お、やっと来たな」
俺に気付き、机の前に座る。俺もそれにならって、座卓の前に腰を落ち着けた。
「すげぇ気合い入ってんな。もう食っていいんだよな?」
「いいよ。冷めないうちに早く食べよ」
俺は手を合わせて「いただきます」と言い、岩沢もそれに続く。ここにある食材の生命と朝食を作ってくれた岩沢に感謝し、だし巻き卵を一つ口に入れた。
「……うまいっ!」
「そうだろ。渾身の傑作だぜ」
岩沢は満足そうに笑って、自らも飯に手を付け始める。
確かにうまいのだが、俺は純粋に岩沢の料理のうまさに驚いていた。
てっきり、岩沢は生前もこの世界に来てからもずっと音楽ばかりをやっていて、料理とかそういう女性的な面は皆無だと思っていたのだが。
「失礼なやつだな。こう見えても、生前は飲食店でアルバイトしてたんだから。これくらいはできるよ」
なるほどな。ロックに生きる女、岩沢の意外な一面が垣間見られたもんだ。
「まぁ、両親がろくでなしだったってものあるからね。父親なんかはもうどうしようもないやつで、いつも周りに迷惑ばかりかけてた。母親の方も、あまり家事とかやらない人で、ほとんどかまってもらえなかった。そんな両親に頼れない私は、自然と家事や自炊を自分で出来るようになったってわけだ」
まるで他人事のように平然と岩沢が言う。
「そっか……。お前の家庭も悲惨だったんだな」
ぐしゅぐしゅ、とサラダを箸でかき混ぜながら呟く。
「そういや、あんたの方はどうだったんだ? ……って、あんた記憶ナシオだったんだっけ」
記憶ナシオ言うな。
「俺もあまり自炊が出来てたとは思えないけどな。両親がどういう人だったか覚えてないし、両親と暮らしてたのか一人暮らししてたのかも分からねぇけど、仮に俺が一人暮らししてたところで、どうせいつも外食かコンビニで済ませてたろうさ」
生前に関する記憶はないが、世間一般常識まではさすがに覚えているので、仮に料理が出来ていたとしたらその方法だって覚えているはずだ。
その記憶がないということは、恐らく俺は料理が出来ない人間だったのであろう。と勝手に納得しておくことにする。
「それよりさ、この世界で自炊って珍しいよな。みんな三食は食堂で済ませてるんだし」
俺の思いつきに岩沢は、
「そうだな。そりゃあ毎日のご飯が食堂でまかなえるなら、それにこしたことはないでしょ。でも、一般生徒の中でもやっぱり自炊にこだわる人はいるみたいで、食堂でもそういう人向けに食材を販売とかしてるらしいよ。もちろん、自炊派の生徒だって毎日三食を全て自炊してるかどうかは分からないけど」
「んじゃあ、お前も自炊派?」
「いや。私はみんなと同じ食堂派だよ。ただ、月に二、三回くらいは自分でご飯を作ってみたりもする。たまに作るくらいなら料理も楽しいし、なによりひさ子もうまそうに食べてくれるからな」
この永久不変の世界で、そういう楽しみ方もあるわけか。
岩沢は音楽といい、料理といい、楽しみを見つけるのがうまいように思える。ある意味才能だ。その才能こそが、ガルデモの名曲を作り上げる基盤となっているのだろうか。
そういう風に生きられたら、もっとこの世界での暮らしも楽しくなるのだろう。
だからこそ俺は、
「おかわり」
「はいはい。いっぱいあるから遠慮無く食べろよ」
岩沢の作ったうまい飯を堪能させていただくことにしよう。
そんなこんなで、俺はご飯を三杯おかわりし、朝食を取りおえる。
岩沢が食器を片付け始め、俺も自分の食器をまとめて台所に置き片付けを手伝おうとしたのだが「いいよ。あんたは休んでな」と優しく却下された。
やることもなくなった俺は、壁にもたれながら空を仰ぎ見る。といっても、そこにあるのは青空ではなく丸い蛍光灯がついている白い天井だ。
「はぁー……。朝から腹一杯食ったのは久しぶりだな……」
「音無。あんた、」
「分かってるって。満足しちまったら消える原因になるんだろ? けど、こうやって腹一杯飯を食って、そのまま人生を終えるのも悪くないかもしれねぇ」
「ばか。あんたが消えちゃったら私は……」
それ以上、言葉は続かなかった。
蛇口から水が流れる音だけが鳴り、食器がぶつかり合う音も消えて岩沢は立ち尽くす。
台所にたつその後ろ姿を見て、俺がどうしたのかと駆け寄ろうとした時、
どんっ! と太鼓を叩くような音が響いた。
思わずびくり、と身体を震わせる。
再び、どん、どん! と何度も音が鳴り、その発生源は寮室の扉からのようだ。
やがて音が鳴り止み、
「いーわーさーわー……。おきてるぅー?」
気だるそうな声が扉の向こうから聞こえてくる。その声を聞いた岩沢は「やばっ……!」と、めずらしく焦りを表す声をあげた。
「な、なんだ。どうしたんだ」
「声聞いて気付かないっ? ひさ子だよ!」
岩沢は慌てて水道の蛇口を止めて、俺の方へと駆け寄る。
ちょうど俺の目線の先に玄関口があり、俺と岩沢は扉を見つめる。
「……んだよ、寝てんのか。せっかくあたしが帰って来てやったってのに……」
扉の向こうにいるひさ子と思われる人物は、なにやらドアノブをガチャガチャと回し始める。
しかし、鍵がかけられているので扉が開く気配はない。
「ど、どうしよ。早くどうにかしないと……」
「どうにかって、鍵を開けてやればいいじゃないか」
焦りを隠せない岩沢の代わりに俺が鍵を開けてやろうと立ち上がるが、岩沢が俺の肩をがしり、と掴み制する。
「なにいってんの。もしこの状況でひさ子が部屋に入ってきたら、どうなると思ってんだ」
「どうなるって……」
普通にひさ子が帰ってきて、部屋に入る。どうせひさ子の事だから「岩沢、腹へったー。飯ー」なんていいながら徹夜帰りの夫同様、どかりと机の前に座って飯を催促するだろう。
だから妻役の岩沢が飯を持ってきて、ひさ子ががっついて、その光景を岩沢と俺が笑いながら見て――って、
俺がその場にいたらまずいじゃん。
どうかんがえても、ひさ子が飯を催促する前に「なんで新人がここにいるんだよ」なんて事を言うに決まっている。
いや、誰だってそうだろう。なにせ男子禁制の女子学生寮だ。そんな場所に、しかも朝っぱらから男女二人っきりでいたとすれば、どう考えても事後としか思えないのは明白だ。
そうなれば、ひさ子がどういう反応を示すか……。容易に想像することができる。
「やべぇ! どうしよう、とりあえず外に、」
俺も岩沢に続いて焦り始める。というか、どちらかというと身の危険が高いのは俺の方だ。
死なない世界だからどうなってもいいやー、ははは。なんて悠長な事は言ってられない。
「外ってあんた、この部屋から出るにはそこの玄関か窓しかないけど……」
「じゃあ窓しかねぇだろ! じゃあな岩沢、世話になった!」
颯爽退散よろしく、俺は窓に足をかけるが、顔前には女子寮の側面に広がる緑溢れる中庭――がミニチュアセット並の大きさで伺える。
すっかり忘れていた。ここって三階じゃん。
半身を乗り出した俺の身体へ、ひゅおおぉー、と朝の涼しい風が吹きつける。
三階って……下手したら死ぬよな……。
となると、他にこの場をやり過ごす方法を、ひさ子が鍵をかけたまま寝ている岩沢に対してブチギレて、扉を蹴破るまでに考え出さないと、
「んだよ、鍵かかってんじゃん。ったく、めんどくせー……」
そうこうしているうちにも、ひさ子が扉の向こうから鍵を開けようとドアノブに鍵を指す音が鳴る。あぁ、自分の部屋だから鍵を持ってるのは当たり前ですよね。
「……よし、一回死ぬか」
俺が意を決して三階の窓から飛び降りようとするが、
「音無、だめだって! 早まるな」
岩沢にがっしりと胴回りホールドをホールドされて阻まれる。
「放せ、岩沢! 俺にはもうこうするしかないんだ!」
「そんな昼ドラみたいな展開じゃなくて、もっといい方法があるでしょ!」
「じゃあその方法を提示してくれよ! 今すぐ、三秒で!」
「そ、それは……」
岩沢が口ごもる。
しかし、それを遮るように玄関のドアが解錠され、ガチャリと開き――。
「たっだいまー」
ひさ子が気だるそうに言う。
「お、おかえり。ひさ子」
岩沢がそれを迎える。
「なんだ、岩沢。起きてたんなら鍵開けてくれよな」
「ごめんごめん。って、結局朝帰り?」
「まぁな。あのバカ共に付き合わされて気付いたらこんな時間だよ、まったく。あー、頭いてぇー……」
「……ひさ子。あんたもしかして、また飲んできた?」
「へ?」
「やっぱり。あんたまだ未成年なんだから、」
「あー、違う違う。飲んできたっていっても、あれよ、あれ。ノンアルコールビールのアルコールが入ってるやつ」
「それって結局……!」
「はいはい、その話は終わり。それよか岩沢、腹へったー。飯ー」
「まったく……。ご飯できてるから、そこに座って待ってな」
「りょーかーい」
ひさ子が座卓の前にどかりと座る。
そんな光景を俺は、ベッドの下で聞いていた。かろうじて確保された視界からは、ひさ子の尻だけが見える。
窓から飛び降りようと決心した俺を岩沢が止め、そこでひさ子が入ってこようとしたその瞬間、胴回りをがっちり確保された俺は岩沢に思いっきり床に投げ飛ばされ(あれがジャーマンスープレックスというものだろうか)そのままベッドの下に押し込まれた。正確には蹴り入れられたのだが。
無理に狭いベッドの下に入れられたものだから、身体中が痛い。だが、体勢を変えようものなら物音が立ち、俺がベッドに下に潜ってやりすごそうとしていることがひさ子にばれてしまう。それはなんとしても避けたい。
部屋の中では、岩沢が朝食を机の上に並べる音が聞こえる。どうやら岩沢は、ひさ子が帰ってくるのを見越して三人分の朝食を作っていたようだ。
まさか、こんなに早く帰ってくるとは思って無かったのだろうが。
ひさ子は朝食が出揃う前に、手を付け始めたようで、
「んー、うまい。岩沢、お前いい妻になれるよ、ほんと」
「なにいってんの。ほら、味噌汁もあるから」
「さんきゅー」
そう言って、味噌汁をすする音を立てる。
「うん、ダシがよく取れてていい味だ。岩沢、この味噌汁の隠し味を当ててやろうか」
「そんなの無いけど」
「いーや、あるね。正解は……味噌!」
ひさ子が全国高等学校クイズ選手権並にハイテンションで答える。
つーか、味噌汁なんだから味噌が入ってるのは当たり前だろ、というツッコミをするのも面倒らしく「はいはい。正解」と岩沢は適当に流した。
ひさ子がいつものひさ子と違うように思えるのだが、これは岩沢と二人でいるプライベートな時だからなのか、それとも単に未成年が飲んではいけないものを飲んだ末のハイテンション状態だからだろうか。
「いやー。でも本当に岩沢はいい妻になるよ。戦線の野郎共はそういう所を分かってないんだよな。ただクールで音楽狂の岩沢しか見てないから、こういう家庭的な一面が分からないんだ」
「ほめても、これ以上おかずは出ないよ」
いや、音楽狂っていうのはほめてないと思う。
「そうじゃなくてだな……。岩沢は気になってる男とかいねぇの? ……そういや岩沢、最近あの新人と仲いいじゃん。どうなんだよ、そこんとこ」
……新人って俺のことだよな。
「ど、どうって、別に……」
「あれぇー? 顔赤くなってるぞ岩沢ぁー。どうなんだよ、誰にも話さないからお姉さんに言ってみー?」
「こら、やめろって……!」
どたばた、と岩沢とひさ子がもつれ合う音が聞こえる。岩沢はひさ子を押しとどめようと必死で、ひさ子はひさ子で泥酔したエロ親父みたいな勢いで絡みついているのだろう。
結局、岩沢が勝ったのか、ひさ子は無理矢理机の前に座らされる。
「そういやさー、昨日は面白かったんだぜ? 岩沢も来ればよかったのによ」
「昨日って、確か男子寮にいたんだよね。何してたの?」
「決まってんだろ、麻雀だよ。面子は松下五段とTKと……あと、ええと、藤巻もいたな」
「麻雀か。相変わらずだな」
「ああ、そうそう。これ戦利品」
ひさ子がポケットから何かを取り出し、ばさりと卓上に置く。
「食券? なんでこんなに」
「麻雀で食券賭けてたからな。もちろん、あたしの一人勝ち」
ふふん、とひさ子が得意げに威張る。ひさ子は戦線内で麻雀を含む賭け事に関しては右に出る者はいないといわれるほどの強者だ。藤巻達男連中はまんまとひさ子にやられたのだろう。
現に、俺も麻雀でうまくやられた覚えがある。
「結局、あたしが全員分の食券を巻き上げて、野郎共の賭ける物がなくなって解散になると思ったんだけど、どうも藤巻のやつが納得出来なかったらしくてな。食券が無いなら服を賭けてやるって言って、脱衣麻雀が始まったわけよ」
「だ、脱衣っ……!?」
がたん、と机が音を立てる。どうやら岩沢が机を膝で蹴ったのだろう。
「あー、大丈夫。あたしは靴下しか脱いでないから。ちなみに、せっかく奪った食券が取られるのは嫌だから、あたしも負けたら脱いでやるよっていったら、藤巻がスタンディングアンドガッツポーズ。『よっしゃあ、ここからは男共のリベンジだ。ひさ子てめぇ、全裸にして泣かしてやんぜ!』なんて藤巻が言い出すもんだからさー」
「そ、それで、どうなったの?」
岩沢が興奮気味にひさ子に尋ねる。
「藤巻が全裸になって泣きながら帰った。正確にはパンツ一丁だけどな。あいつも諦めが悪いからさ。パンツ一丁になった時点で、もう止めとけば? って聞いたら『俺は最後まで戦うぜ!』なんて言い出して、結局あたしが藤巻に三倍満直撃させた。そしたらあいつさー……」
「な、なに?」
「女みたいに壁に身を寄せて『パンツだけは、パンツだけはっ!!』なんて叫ぶもんだからさ。あたしが脱がしてやろうと部屋の中を追い回したら、あいつ服を置いてパンツ一丁で廊下へ逃げ出しやがった。もうその時の様子が……くくっ、」
はっはっはっはっはーーーーーーーーーーーーーーっ! と、机をばんばん叩きながらひさ子が大笑いを繰り出した。
ひさ子が脱がされなかったのは俺と岩沢共々、安心するところだが、なんというか、藤巻……。素直に同情する。
岩沢も安堵の息を漏らし、
「そっか。早くご飯食べちゃいなよ。それで、ひさ子はこのまま学校行く?」
「いーや、もう眠いし頭痛くて身体も重いから、このまま寝るわ。昼頃に登校するよ」
そう言って、ずずず、と年寄りくさくひさ子が味噌汁をすすった。
徹夜で遊んで、少年法を犯して、朝帰りで学校サボって寝て、昼から登校。まさに絵に描いたような不良生徒の構図が俺の目の前にある。
だが、そんな事をしても許されるのがこの世界――というより、我ら死んだ世界戦線だ。
ていうか、寝るなら早く寝てくれ。俺の身が持たない。
ようやく朝食を食べ終えたひさ子は「ふぃー、食った食ったー」なんて親父丸出しな事をいいながら、腹をさする姿が見える。
やがてひさ子が立ち上がり、俺の目線からはひさ子の足からふくらはぎまでが見える。よし、そのまま早く寝てくれ。
しかし、ひさ子は立ち上がってから動こうとしない。
ようやっと動いたかと思ったら、ひさ子の足首を隠すように淡い青色の布が被さった。
なんだあれ? よーく目をこらして見てみるとそれは――戦線メンバーが着る制服のプリーツスカートだった。
「ちょ……! ひさ子なにしてんのっ?」
驚愕の声をあげる岩沢に、
「何って……着替えるだけだけど。さすがに制服のまま寝られないだろ」
「そうじゃなくて、もうちょっと周りの目を考えて、」
「何いってんだよ。ここにあたしと岩沢以外の誰がいるんだよ」
うぐっ、と声を漏らし岩沢が黙りこむ。
その間にも、ひさ子の足首が脱ぎ捨てられたスカートをまたぎ、片足があがったと思ったら、もう片方の見えている足の踝にピンク色の布が被さる。
スカートの次に下半身から脱ぐ物といったら……。いや、やばいって、マジでやばいって!
つまりは、もし俺がここから首を出そうものなら、ひさ子の生まれたままの姿の下半身を見上げるようなことになり、それはつまり、以前風呂場で野田の戦艦大和(うげぇ、思い出したくもねぇ)を見た時以上の衝撃が俺の心ともう一人の俺を襲うわけで……。
そんな俺の思考を遮るように、だんっ!! と何かが俺の視界を遮った。
紺ソックスをまとったその足首は、どうやら岩沢のものらしかった。俺がこの光景を見ていると予測し、視界を防ぎに来たのだろう。
残念だが、ある意味助かったとも言える。言い訳ではないのだが、俺の今の状態はただでさえ入るのが困難なベッド下にいるものだから、身動き一つ取れない。つまりは、首を動かして視線をそらすことも出来ないということだ。
目を閉じればいいって? それは健全な思春期男子としての俺の本能が許してくれないだろう。
やがて、どすんっ! という音が俺の上部から響き渡る。
俺の上にあるのは二段ベッドの階下であって、岩沢が上に寝ていたということは、階下はひさ子の寝床であり、そこにひさ子が収まったのだろう。
その音から一分もしないうちに、ひさ子の寝息が聞こえてくる。
岩沢のそわそわした足音が鳴り止んだ頃、
「……もういいよ」
ベッドの下をのぞき込んだ岩沢が、小声で俺にそう告げた。
俺は真上で寝ているひさ子を起こさないように慎重にベッドから這い出る。
「ふぅ。危なかったぜ。これこそまさに九死に一生ってやつだな」
汗をかいているわけではないのだが、安堵するとともに手の甲で額を拭う。
「さ、ひさ子が起きる前にさっさと学校行くよ」
岩沢がギターケースを抱えて玄関へと向かう。俺もそれに続いて一歩踏み出したが、そこで何かを踏みつけた。
「……ん? なんだ?」
足下には、脱ぎ捨てられた制服が散乱しており、俺は足をどかして踏みつけていた布を一つ手にとって顔前に掲げた。
桃色のレース生地で構成され、二つの円筒状のカップが紐でつなげられたそれを見て、
「うわ、でけぇー……」
率直に、感想を呟く。まだ温もりが残っているのがなんとも生々しくもある。
「へ……? うわっ、たっ!?」
気付いた岩沢が、ばばばばっ! とひさ子脱ぎ捨てて散乱していた制服を素早くかき集め、最後に俺の手中から下着をひったくってそのまま洗面所へと消えた。
顔を赤くした岩沢が洗面所から帰還すると、
「まったく……。だから脱いだ物は片付けろってあれほど……」
ぶつくさと呟きながら、俺を睨み付けた。
俺は苦笑しながら頭をかき、視線を反らせる。
そこには、枕に頬を埋めて幸せいっぱいに眠るひさ子の寝顔があった。
いつものつり上がった鋭い視線と隙を見せないオーラとつむじの下で結られたポニーテールはそこになく、よだれを垂らしながら幸せそうに眠る寝顔と隙だらけにお腹を出したパジャマ姿と敷き布団に散乱している長い髪があり、岩沢の部屋でなければ決して見られないような珍しい光景がそこにあった。
こうして見ると、岩沢と同様、ひさ子も一人の女の子なんだな、と思わされる。
「なぁ、音無。今だから言っとくけど……」
背後からの声。それは突然俺の眼前へと現れ、
「ひさ子にほれちゃダメだからな」
ずびしっ! と俺を指さしながら岩沢が忠告した。
これはあれか? ひさ子は私のもの宣言か?
そう解釈しておくことにしよう。それ以上に深い意味があったとしても、今の俺にそれを察する事はできそうにないしな。
俺は岩沢のおでこを軽くつついてから言う。
「――どうだかな」