学生寮を出て、校舎内へと足を運ぶ。
 閑散とした廊下には生徒の姿は見当たらない。
 それもそのはず、今は二時限目の授業の最中であり、一般生徒達はみんな教室で授業を受けているからだ。
 開けた窓からは体育の授業をやっている生徒たちの叫び声が聞こえてくる。
 その音に混じるように、背後からはリノリウムの床を叩く音が徐々に近づいてきて、やがてそれは俺の真後ろで止まった。
 「よ、音無っ」
 日向が俺の肩を叩いて正面に回った。
 「今来たのかよ。お前不良学生だな」
 「お前にいわれたかない」
 そもそも、模範的に生活をしている一般生徒に比べれば俺達SSSは全員不良生徒みたいなものだ。
 「てか実際に不良生徒っているのか?」
 「さぁな、でもNPCに規則を乱すっていう概念はないだろ」
 それもそうか。仮にいたとしたら今頃俺達の見方になっているか、天使に目をつけられて模範的な生活を強いられ、消えているはずだ。
 「そんなことよりさ、昨日は大丈夫だったか?」
 大丈夫なものか。結局あの後ゆりに引っ張られて色々と尋問を食らうハメになった。
 もちろん日向は途中で逃げやがった。こいつも同じ目にあったことがあるんだろう。
 昨晩、ゆりから帰っていいと言われた頃にはもう夜中の二時を回っていた。
 重い腰を上げて帰ろうとしたところ、ゆりがつぶやいた。
 「音無くんってさ、今好きな人っている?」
 何を修学旅行の夜じゃあるまいし……と言おうと思ったが、ゆりの態度は冗談を言っている風には見えなかったので、俺はただ、いないとだけ答えておいた。
 ゆりは、そう。とだけ言うと俺に背を向けて、開けた窓から空を見上げた。
 彼女が何を言いたかったのか分からなかったが、固まったまま動かないゆりに別れを告げて、校長室の扉を開いて再び帰ろうとした。
 そこで、ゆりが一つ俺に忠告した。
 「−−この世界で恋をするのはやめておきなさい。それが叶ったら、あなた消えちゃうから」




第二話 恐竜少女




 これといって特にやることが無かったので、日向と一緒に校舎内をうろつく。
 あまった食券を持って食堂でポテトを買い、二人で分け合いながら歩き食いしている俺達は間違いなく不良学生だろう。もちろん今は授業中だ。
 図書室の前を通りかかると、中に見知った顔を見かけた。
 館内に足を踏み入れて、大型本を机の上に広げて読んでいる女生徒二人組の背後に回って、うち一人の女生徒のポニーテールを日向が軽くたくし上げた。
 「よぅ、お二人さん。熱心になに読んでんだ?」
 返答はない。
 「無視かよっ! おいひさ子っ」
 日向の手からポニーテールを振り払って、俺達の方へ顔を向けた。
 「朝からあんたの顔を見るなんてね……今日は最悪の一日になりそうだわ」
 不機嫌そうに、ひさ子が眉をしかめた。
 「そりゃあねぇぜ。こんな時間にあえたんだからさ、どっかでヒマでもつぶさねぇ?」
 日向がひさ子にナンパをしかけるが、相手は呆れておでこに手をあててため息をついた。
 「あんたとヒマをつぶすくらいだったら、昼寝してた方がマシよ」
 ふい、と再び日向に背を向けた。ポニーテールがしなやかになびく。
 「お前、嫌われてるんじゃないのか?」
 「そんなことねぇよ。なあひさ子、ポテト食う?」
 「いらない」
 ひさ子の隣にいる女生徒は、未だに食い入るように本を眺めてはページをめくっている。
 俺はそいつに声をかけようと思ったが、少々ためらった。
 真剣な眼差しで本を読んでいる彼女は、それだけで絵になったからだ。
 悲壮感を漂わせる顔、優しくページをめくる細い指、時折風になびかれて揺れる前髪。
 俺がその光景を壊してしまうのかと思うと、少し心が痛んだ。
 だから俺はただ呆然と、彼女を見続けていた。
 やがて日向とひさ子のやりとりに気付いたのか、顔を上げて後ろを振り返る。
 そこで、彼女と目が合った。
 思わず俺は硬直してしまい、言葉がでない。
 「−−おはよ、音無」
 だから先に彼女が俺にそう告げた。
 「お、おはよう……岩沢」
 読書をしていたさっきの表情とは一変して、岩沢は優しく俺に微笑みかけた。
 後ろでは、今も日向とひさ子がじゃれあっているが、明らかに日向がおされている。
 その日向の手からポテトをひったくって、岩沢に差し出した。
 「なあ岩沢、ポテト食うか?」
 って、何をしてんだ俺は。
 「ありがと、いただくよ」
 岩沢は何食わぬ顔でポテトを一つつまむと、口の中に放り投げた。
 飲み込んだ後に、何かに気付いたように硬直する。
 「……そういえば、図書室の中って飲食禁止だったよな。ダメだぞ、音無」
 「食ったお前が言うな」
 周りに教員や図書委員の姿は見当たらないが、別に授業として図書室に来ているわけではないから無理に規則を破る必要もない。
 周りの本をどけて、机の端にポテトを置いた。
 「音無も調べ物か?」
 岩沢は手についた油をハンカチで拭いながら尋ねる。
 「いや、お前らを見つけたから来ただけだ。ヒマだったからな。岩沢は調べ事か?」
 「ああ。何かを調べるには図書室が一番手っ取り早いからな」
 「何を調べてたんだ?」
 「これ」
 そう言って岩沢は本を指さす。
 俺は身を乗り出して、本の内容を覗いた。

 ティラノサウルス・レックス
 中生代白亜紀末期、北アメリカ大陸に生息。
 体長は11〜13m、体重は3〜6t。
 最強の肉食恐竜で、獲物を捕らえては大きな顎で骨ごと噛み砕く。
 二足歩行だと言われており、その巨体からは想像もできないほどの歩行力を持っている。
 時速50km/hの速さで走るとも言われているぞ。

 ……きょうりゅうずかん?
 「そ、なかなかかっこいいだろ」
 見開きのページには、巨大なティラノサウルス・レックスが小型恐竜を食している様子が描かれている。
 内容を見るに小学生向けの恐竜図鑑のようだが、それを見て悦に浸っている岩沢も小学生のように見える。
 「なんでまた恐竜図鑑なんかを見てるんだ」
 尋ねると、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、岩沢が回想を始めた。
 「今朝の話なんだけど、ひさ子と一緒に登校していたら掲示板の前を数人の男子生徒が囲っていたんだ」
 何かおもしろい記事でも貼り出されていたのだろうか。
 「何事かと少し近づいて見ると、やつらはガルデモのライブ告知のポスターに落書きをしていた」
 「そりゃひどい話だな」
 「ああ。ひさ子が止めに行こうとしたんだが、私はそれを制した。生徒の誰しもがガルデモを好きってわけじゃないからな。妬んでいるがいてもおかしくない。私はひさ子をなだめてその場を立ち去ろうとした。だけど、私達の間をすり抜けて一人の女生徒が勇猛果敢に男子生徒の中につっこんっでいったんだ」
 「誰なんだそいつは」
 「分からない。でも何度かライブの観客席で見かけたことのある顔だった。熱心なファンだったらしく、男子生徒達からペンを取り上げて猛抗議を始めた。しかしそいつらは彼女の説得に応じることはなく、あげく一人の男子生徒がキレて少女の胸ぐらを掴みにかかった」
 「それで、どうなったんだ?」
 「思わず笑っちゃったよ。その女生徒は胸ぐらを掴んだ男子生徒を蹴り飛ばしたんだ。もちろん周りにいるやつらも穏やかでは無くなって一斉に彼女に襲いかかった。だけど彼女は男子生徒十人近くを一人でやっつけたんだ」
 「それはすごいな。そんなことができる女なんてゆりくらいしか知らねぇぞ」
 「そうね。私とひさ子はその光景に見入って呆然と見ていたんだけど、気がついた時には男子生徒の山の上でたたずむ彼女の姿があった。最後に彼女は鞄から新しいポスターを取り出して、掲示板に張り直してから去っていったよ。あまりの早さに、名前を聞くこともできなかった」
 正義感が強いやつなのか、そうとうなガルデモファンなのか分からないが、確かにかっこいいと思った。
 でも同じSSSにそんな元気なやつがいたか? NPCがそこまで大胆な行動を取るとも思えない。
 そして、この話がどう恐竜とつながるのかも分からない。
 「私はその少女に影響されて、同時に曲のイメージがあふれるように浮かんできた。だからその後、彼女を捜すよりも先に、ギターを弾くよりも先に図書室へ向かった。そして今やっと見つけたよ」
 よく見ると周りには様々な図鑑や文献が散らばっている。
 どれも動物図鑑のようだが、中には地球外生命体や妖怪などミステリー系のものまでも混ざっている。
 岩沢は恐竜図鑑の開いているページを指さして言った。
 「ピンク色の髪をなびかせて、数人の男子生徒相手に暴れ回る彼女はまさに恐竜のようだった。特にこのティラノサウルス・レックスがイメージ通りなんだ」
 図鑑の重さをものともしないほどご満悦の様子で、図鑑を俺の眼前へと差し出した。
 ちょっと待てよ、ピンク色の髪って……。
 なるほど、確かにあいつならやりかねない。
 ゆり以外で天真爛漫で鉄砲玉のような女で、ガルデモのファンでピンク色の髪をしたやつといったらあいつしかいない。すっかり忘れていた。
 今度、機会があったら岩沢にあわせてやることにしよう。あいつも喜ぶだろうしな。
 「それで、曲のイメージははっきりしたのか」
 「ああ、今も頭の中で流れてるよ。題名も決まった、『Dinosaur Girl』だ」
 恐竜少女か。違いない。
 一目見た少女の印象をすぐ言葉にできるのは、俺達とは違う感性を持っているからだろう。さすが大人気ガールズロックバンドの作曲者なだけはある。
 ついでに、他の戦線メンバーも動物に例えてもらいたいくらいだ。
 岩沢は恐竜図鑑を見開いたまま机の隅に置き、別の動物図鑑を開き始める。
 数ページ進んだところで、手が止まった。
 「ひさ子はこれかな」
 岩沢が指をさしたのは、大きなあくびをした猫の写真だった。
 「私が猫? はは、そんなかわいくないって」
 ひさ子が振り返って図鑑をのぞき込んだ。
 でも以外とあっているかもしれない。根拠はないが、ひさ子が猫っぽいと言われればそうだと思ってしまう。
 「じゃ、このバカは?」
 「誰がバカだっ」
 ひさ子が親指で日向を指した。
 「うーん、犬かな……」
 「犬かよっ! オオカミとかじゃなくて?」
 「うん、犬。なんかそれっぽい」
 それを聞いてひさ子が大笑いをした。
 「確かに、すぐしっぽ巻いて逃げるヘタレっぷりが犬っぽいなっ」
 「あのなぁ……、俺だってやる時はやるんだぜ? ヘタレは返上してくれよ」
 「だったら行動で示しな」
 ひさ子が軽くあしらった。
 確かに日向もやる時はやるんだけどなぁ……。日頃がこういう軽いキャラだからヘタレ扱いされてしまうんだろう。
 犬といえばもう一人、野田のやつが思い浮かぶ。すぐに人に噛み付いたり無鉄砲で、ゆり以外の指示には従わない忠誠心はまさに犬だろう。
 あいつの前世は犬だったのかもしれない。
 「じゃあ、岩沢は?」
 俺が聞くと、岩沢は困ったように顔をそらした。
 「自分で自分のことを言うのか?」
 「そうだ。ここまで的確に言い当てられたんだから、一番知っている自分のことなんてすぐ分かるだろ」
 自分で言っておきながら、少し無理があったと思う。
 俺だって自分で自分を動物に例えてみろなんていわれたとしたら、考えたくもない。
 その証拠に、岩沢はこれまで以上に悩んでいる。
 その横からひさ子が腕を伸ばして、動物図鑑をめくり始めた。やがて手を止めて、一つの動物を指さす。
 「岩沢はこれだよ。ハムスター」
 「は、ハムスター?」
 頬をぱんぱんに膨らませて、なおひまわりの種を口に入れているハムスターの様子が映し出されており、岩沢はそれと自分を当てはめてみて首をかしげた。
 クールビューティーと謳われた岩沢がなぜハムスター?
 「確かに岩沢はクールでかっこいい完璧人間だ。全校生徒からモテモテだし。でもそんな岩沢にも結構かわいい部分があるんだよ」
 人差し指を立ててひさ子が補足した。
 俺達には分からない、ガルデモメンバーにしか見せない岩沢の素顔があるのか、それともこう見えて根はハムスターのようにかわいい小動物なのか。
 ハムスターのようにちびちび動き回る岩沢か……。
 ちょっとそんな姿も見てみたい気もした。
 「だったら、音無もハムスターだな」
 日向が横から入ってくる。
 つーか、俺のどこがハムスターなんだ。どうみても小動物系ではないし、かわいい部分なんて皆無だ。
 「自分ではそう思ってるかもしれないけどよ……俺から見ればお前には、ハムスターのようにかわいい部分があるんだぜ……」
 「日向、お前……これなのか?」
 手の甲を口元に当てて訊いた。
 「ちげぇーよっ! てかひさ子も引いてんじゃねぇよ!」
 ひさ子はこれでもかというほどに身体をのけ反らせて日向から距離を置いている。
 またひさ子の中で日向株が下がったに違いない……。
 「じゃあさ、ゆりっぺは? あいつは例えようが結構ありそうだろ」
 気を取り直して、日向が話題を変えた。
 「うーん、ライオンかなぁ……」
 真っ先にひさ子が答えを出す。
 「ライオンっていうよりは豹だろ。ああいう気が強い女って女豹とか例えられるし」
 日向の返答に頭を悩ます。やがてその矛先は岩沢に向かった。
 「岩沢はどう思う? ほら、ゆりっぺを動物に例えるとさ、」
 「……天使」
 「はぁ?」
 思わず、俺を含む三人が声を漏らした。
 「いや、ゆりっぺをフォローしたい気持ちは分かるけどよ、どちらかと言うと悪魔だろ、ありゃ……」
 冗談交じりに笑う日向だが、ようやく岩沢の様子がおかしいことに気付く。
 岩沢は微動だにしない。俺はその視線を追ってみる。
 隙間がないほどに詰められた本棚が規則正しく並んでおり、その本棚で作られた通路の先−−胸の前で本を抱えている天使が立っていた。
 こちらを伺うように眺めていたが、やがてこちらへと歩を進めてきた。
 今は授業中であり、天使を除く他の生徒は図書室にはいない。違反生徒として、俺達が天使に咎められる事は間違いなかった。
 俺と日向はとっさに、天使の前に立ち塞がり、日向が天使を見据えたまま背後の二人に向かって叫んだ。
 「岩沢、ひさ子! お前らは先に逃げろ……って、いねぇっ?」
 後ろを振り返ると、いつの間にか俺達の背後に二人の姿は無かった。ちょうど図書室の入り口付近に、岩沢を引っ張って走るひさ子の姿を確認できた。
 なるほど、この逃げ足の速さが猫ってわけね……。
 「どうするよ、音無……二人じゃ勝ち目はねぇけど、ここでドンパチやるか?」
 日向はすでに懐に右手を入れて、構えている。
 「待て、ここは俺に任せてくれ」
 戦線メンバー全員で集中砲火しても倒せない相手だ。日向の言うとおり俺達二人ではまず勝ち目はない。
 だからどうにか説得して、この場を納めるしかない。
 俺は日向を制して、率先して天使の目の前に立った。
 「……今は授業中よ。教室にもどって」
 平然と、天使が俺を諭す。
 俺は机から持ってきていたものを天使の前に差し出して、促した。
 「なぁ、お前……ポテト食うか?」
 自分でやりながら思う。俺って最高のアホだ。
 「いらないわ。それに図書室で飲食することと、授業中に飲食することは校則違反よ」
 やはりこんなことで気を引けるほど甘くないか……。て、当たり前だ。
 天使は何食わぬ顔で反論するが、それでも両手は大量の本でふさがっており、それを置いて手を空けないということはまだ攻撃する気はないようだ。
 そもそも、授業中であるのに模範生徒どころか生徒会長である彼女がどうしてここにいるんだろうか。
 わざわざ授業を抜けてまで俺達を追い回す必要性はないだろうし。
 「先生に頼まれて、授業で使う教材を取りに来たのよ」
 教師公認か。つまり俺達が天使に見つかってしまったのは偶然だったわけだ。
 それでも見つけてしまったのだから、彼女からしても生徒会長として見過ごすわけにはいかないのだろう。
 「じゃあさ、早く授業に戻れよ。先生が待ってるぜ」
 「そうね。でもあなたたちも一緒に行くのよ、教室に」
 押してもダメなら引くしかないか……。
 「いや、実はな……後ろの日向が今大変な事になってるんだ」
 首で日向の方を示す。
 「どうして?」
 無垢な顔で首をかしげる。
 「ああ見えて、今かなりの腹痛がやつを襲っているんだ。授業を抜け出してきたのもそのためさ。ものすごく水で、限界までもうすぐなんだ……」
 「じゃあ早くトイレに行かないと」
 「それがさ、さっき行ったトイレには紙が無かったんだ。だからそれを探しに走り回ってたんだけど、途中で図書室を見つけてな。ここなら紙がいっぱいあるって思って」
 何とも苦し紛れないい訳だと思う。そもそも腹痛で悩んでいるやつが図書室でのんびりしているものか。そんなヒマがあったら別の階のトイレに行く。
 そして俺はなぜポテトを持っている? 苦しんでいる友人を見ながら俺は平然とポテトを食っているのか?
 一緒に授業を抜け出したんだから一緒に便所に行くのが普通だ。つまり俺は日向が便器で喘いでいる傍らで、扉越しにポテトを食いながら見守っているのか?
 そんなの嫌すぎる……。
 こんなツッコミ所満載のいい訳に対して、天使は反応するのだろうか。
 「図書室の本は公共物なんだから破ったりしちゃだめよ」
 普通に来たか……。
 笑いを一切取りに来ないところが生徒会長としての威厳なんだろうか。
 「ああ、悪かった。それじゃあさっさと紙を見つけに行くとするよ。じゃあな」
 早々に立ち去ろうとしたところで、天使に服の裾を捕まれる。
 「ちょっと待って」
 やはり簡単に逃がしてはくれないか……。
 天使は開いている方の手をポケットにつっこんで、何かを取り出そうとしている。
 俺も身構えて様子を伺った。
 「はい。もしも紙が見つからなかったらこれを使って」
 そう言って差し出されたのは、シワが一つとしてない、真っ白なハンカチだった。
 「いいのか? こんな奇麗なもの」
 「いいわよ。家にたくさんあまりはあるし。それとも一枚じゃ足りない?」
 天使が再びポケットに手をかける。
 「いや、十分だよ、ありがとう。今度洗って返すからさ、またなっ」
 俺は日向を連れて図書室を後にした。
 天使は俺達に対して何も言わず、ただ少し心配した面持ちで俺達を見送っていた。

 図書室とは正反対の方向へ走り、昇降口のあたりまで来ると、辺りを見渡して天使がいないか確認する。ようやく安全を確認できると、一気に気が抜けて廊下に座り込んだ。
 「誰が腹痛で水だ。俺はいたって健康だっての」
 無茶言うな。あそこでうまく切り抜けた俺の方が感謝されてもいいくらいだ。
 「そういやそれ、どうするんだ?」
 日向が俺の手を指さす。シワ一つ無かった真っ白なハンカチが、俺の手中で強く握られたことによってぐしゃぐしゃになっていた。
 シワができていても今度洗ってアイロンをかけて返せばいい話だ。
 でもこのハンカチってもしものためにケツを拭くためにくれたんだよな。
 そのハンカチを洗って返すってことは、つまり使ったという証明にもなる。
 たとえ洗ったとしても、ケツを拭いたハンカチを返されていい気分になるか? 少なくとも俺は不快感を覚える。
 ……どうしたものかな。
 俺はこのハンカチをどうしようかと考えながら、ポケットに無理矢理ハンカチを突っ込んだ。





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