真っ白な空があった。
 俺はそれをただ呆然と眺めている。
 思考回路を停止させていた眠気を、ゆっくりと覚ますように音が響く。
 アコースティックギターの音に叙情的な声が重なった一つの音楽が、俺を包み込むように流れている。
 朦朧としていた意識が次第に戻っていき、音楽の発信源がすぐ傍らにあることが分る。
 優しい少女の声。鼻歌交じりに歌いあげる少女が奏でる曲に聞き入りながら、俺はゆっくりと身体を起こした。
 あたりを見回すと、そこは見慣れた一室であり、俺たちが作戦本部としていつも利用している校長室であることをようやく理解した。
 見上げていた真っ白な空は黄ばみがかかった校長室の天井であり、聞こえ続けている歌は一人の少女のものであった。
 首を曲げて俺はその少女の背中を見つめる。
 それと同時に、歌が止まった。
 俺に背中を向けて、椅子に座ってギターを弾いていた少女が俺の方へと向き返って言った。

 「おはよう、記憶ナシオくん」




第一話 始まりの夜




 「岩沢……さんだよな」
 「そ。よく眠れた?」
 「あ、ああ……まぁな……」
 跳ねた髪を整えるように頭をかく。
 岩沢さんは呆けた俺を見て、穏やかに笑った。
 そういえば校長室には今、俺と岩沢さんの二人だけだ。他のメンバーがいてもいいはずなのに、岩沢さん以外誰一人として姿が見あたらない。
 そもそも、どうして俺は寝ていたのだろうか。しかも校長室のソファで堂々と。
 ただの昼寝とは思えない。
 「覚えてないの?」
 不思議そうな顔で岩沢さんが聞く。
 「ああ。でも恐らく、うたた寝しちゃったんだろ。まったく、抜けてるな俺は……」
 「違うよ。自分で罠にかかったこと覚えてないの?」
 「罠?」
 こめかみに手をあてて考えてみる。
 罠か……そういえばそんな気がする。だが俺は罠が仕掛けられている場所に行った覚えもない。
 ひとつだけ、日常的に罠がある場所に行くとしたらこの校長室の入り口に仕掛けられている対天使トラップくらいなものだ。
 だがあれを食らったのは初めてここに訪れた時だけだ。
 俺は思い返してみた。
 確か今朝に、ゆりから作戦会議があると収集がかかって……。



 作戦会議があると言われて、俺は校長室に向かっていた。確か隣には日向もいた。
 内容はあまり覚えてないが、またいつも通りのくだらない話をしていたんだと思う。
 校長室がある最上階の階段を上って廊下を折れた時に、見慣れたハルバードが俺たちの前を遮った。
 こんな物を持ち歩いているやつなんて俺の知る限り一人しかいない。
 「ここであったが百年目……校長室へ行きたかったらこの俺を倒してから行くんだな……」
 「そしたら大山がさー、これはシンクロシニティだよっ! って言いながら窓を突き破って飛び降りたんだ」
 「ははっ、それはおもしろいな」
 保健室の隣を抜けて、廊下の端にある校長室を目指す。
 「ちょっと待ったぁああーーーーーーっ!」
 ハルバードを持った男−−野田が再び、俺たちの前に立ち塞がった。
 「貴様……俺を無視するとはいい度胸だな」
 「悪い気付かなかった」
 再び歩き出す。
 「待てと言ってるだろ! ここであったが百年目……校長室に行きたかったらこの俺を倒してから行くんだな!!」
 野田がハルバードを俺の方へ構えて臨戦態勢をとった。
 面倒だから避けていこうと思ったのだが、こいつのしつこさは筋金入りだ。そう簡単には通してくれそうにないだろう。
 「さぁ決着の時だ……構えろ、音無」
 俺と野田の間に日向が割って入った。
 「落ちつけって、早く行かないと開始時間に遅れちまうぜ。ゆりっぺに怒られたくないだろ?」
 「心配するな。すぐに終わる……さぁ、来い!」
 日向を押しのけて、野田は再び俺の方へ向き直ってハルバードを深く構えた。
 「今お前とやる気はない。悪いが校長室へ行くか、帰ってくれ」
 軽くあしらってやる。
 「ふん、なら貴様が帰るんだな。だがここで背を向けたら、その時点で貴様は負け犬と一緒だ。アホ同然だ」
 「なにぃ?」
 挑発に乗るつもりは無いが、アホの野田にアホ呼ばわりされるのは無償に腹が立つ。
 ここは男として、野田とやるしかないのか。
 勝つ見込みは無いが、アホだの負け犬だのと言われて引き下がれるほど俺は腑抜けではない。
 「いい目だ、やっとやる気になったか。では行くぞ……ヘェヤァアアァアアーーーーーーッ!!」
 野田が猪のように突っ込んでくる。まともに真正面からぶつかっても、こいつのパワーと長身のハルバードには手がでない。
 すんでのところでカウンターを入れて、窓から投げ出してやれば俺の勝ちだ。
 できる自信は無いが、それしか勝つ術はない。
 俺は重心を低く構えて、頃合いを見計らった。
 野田の持つハルバードが天井スレスレまで掲げられて、それが振り下ろされた。
 ここだ。俺は倒れ込むように身体を右へと傾けた、と同時に野田の懐に向かって何かが突っ込んでいった。
 それの頭と、野田の顎が打ち合って、二人は後方へと弾け飛んだ。
 「うぐぉおおおおーーーーーー! いってぇええーーーーーーっ!!」
 野田に突っ込んでいったものは、脳天を押さえてのたうち回っている日向だった。
 日向が俺を助けてくれたのか? だがあの状況でそれをやるにはあらかじめ野田の動きを予測していないと無理だ。俺の知る限り日向は、そんな高等テクを持ち合わせてはいない。
 「アホ三人でなにやってんのよ。新しい遊び?」
 背後からの声。振り返ると、ゆりが不機嫌そうな顔で仁王立ちしていた。
 アホ三人ってなんだ。俺はアホじゃない。
 「立派なアホよ。日向くんのアホがうつったんでしょうね。お気の毒に」
 ゆりは残念そうな顔をして俺を見下ろしていた。
 「ゆりっぺ、お前か……俺を蹴り飛ばしたのはっ……」
 悶絶していた日向がようやくまともな言葉を発する。
 「邪魔だったからよ。廊下を塞がないでくれる? 迷惑だから」
 「俺の、せいじゃ……ねぇっ……」
 ようやく理解した。さっき日向が突っ込んでいったのは意図的ではなく、ゆりが蹴り飛ばした事によるものだったのだ。
 うまく野田の懐に入ったのがゆりの計算だったのかどうかは分からないが、後コンマ五秒遅れていたら日向はハルバードにより八つ裂きになっていたことだろう。
 「ふ、ふふ……いいパンチだ。だが俺はその程度でやられはせん……! ふんっ!!」
 日向の隣では、野田が復活を果たしてハルバードを杖代わりにして立ち上がっていた。
 震える膝を抑えながら野田がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
 「さぁ、もう一度だ……行くぞ、音無……」
 「もうやめとけって、そんなにこだわる理由がどこにある」
 「俺は、負けるわけにはいかないんだ……貴様にだけはな……」
 その根性だけは認めるが、矛先を俺に向けないでくれ。
 「くらえ、音無……うぉおお……でぇええぃ、やぁあぁああぁあああーーーーーーーーーーーーーーーーへぎょっ!!」
 最後の力を振り絞って俺へ体当たりをしかけようとした野田をゆりが蹴り飛ばした。
 「なにくだらないことしてんのよ。作戦会議に遅れるじゃない。あたしを怒らせたいの?」
 ゆりの足下に野田が無残に崩れ落ちた。恐るべし、ゆり。
 「ほら、行くわよ」
 ゆりは俺にそう言ってさっさと歩いて行ってしまった。
 俺もそれに続こうとしたが、日向を置いてきたことを思い出す。
 野田は自業自得だから放っておいていいとしても、一応助けてくれた日向を置いていくわけにはいかない。
 膝をついて俯いている日向の元へ歩みよる。
 「大丈夫か日向。立てそうか?」
 日向の腰に軽く手を添えてやる。日向はかすかな声でささやいた。
 「音無よ……俺はもうだめだ、お前は先に行け……」
 身体は震えていて耳からは血が流れ出ている。そうとうな重傷だ。
 「何言ってんだ。ほら顔を上げて行くぞ」
 「へへ、顔を上げても何も見えねぇよ。両目がよ、もう光を失っちまったんだ……」
 薄く開いた目からは生気を感じられない。日向は頭部への強い衝撃で、視力を失ってしまっていた。
 「最後によ、音無……」
 日向は細い息を吐き出して、俺の頬に手を当てた。
 「お前の、笑った顔が……見たかった……ぜ……」
 彼の頬を伝う涙。安らかな寝顔に流れる雫を俺は人差し指でぬぐった。
 「日向っ……」
 後悔なんてなさそうな、幸せに満ちた顔に向かって俺は言った。
 「先に校長室へ行ってるぞ」
 俺は立ち上がって踵を返した。
 死なないこの世界なら、放っておけば元に戻るだろう。
 やがてゆりに追いつく。
 「あら、あなたは無事だったのね。アホの音無くん」
 「誰がアホだ。一緒にするな」
 「冗談よ」
 そのまま二人で歩いて行き、校長室の前までたどり着く。
 俺は扉の前で立ち止まった。
 「どうしたのよ」
 ゆりが背後から俺をせかすように言う。
 「そういえばさ、俺たちは何気なく校長室を使ってるけど、校長はどこへ行ったんだ? まさか校長がいないわけでもないだろ?」
 ああ、そのことね。と言って、ゆりは模範解答を返した。
 「校長は職員室でよろしくやってるわよ。わざわざあたし達が机を用意してやったんだから感謝されてもいいくらいだわ」
 移転先を作ってもらおうと、自分の居場所を奪った犯人に対して礼を言うやつがどこにいる。
 俺は呆れて校長室のドアノブに手をかけた。
 「待ちなさい! あなた死にたいの!?」
 ゆりのあまりの怒声に、思わずドアノブから手を離した。
 もう死んでいるじゃないか、と軽く冗談を言おうとしたが、ゆりの異様な剣幕に圧倒されて言うのをやめた。
 「最初に言ったわよね。もう忘れたの?」
 忘れていない。ゆりが俺を制したのは、俺がトラップ解除のための合い言葉を言わずにドアを開けようとしたからだ。
 危うくくだらないことで死ぬところだった。
 「分かればいいわ。じゃあ、早く開けて頂戴」
 「待て、それは俺がやろう」
 ゆりの隣に、頭から血を流した野田が立っていた。
 あれだけやられていたのになんともタフな野郎だ。ちなみに野田が日向からダメージをくらった場所は顎であり、頭から流れている血はゆりのせいだ。
 「こいつに遅れを取ったからな。ここは俺が華麗に決めて巻き返してやる。どけ、小僧」
 俺を押しのけて、野田が校長室のドアノブに手をかけた。
 「ちょっと待て、お前ちゃんと合い言葉を覚えているだろうな」
 「当たり前だ」
 ふん、と鼻息を鳴らすと、同時に鼻血が数滴床に飛び散った。
 少し思案したあと、
 「……ザ・エンジェルバスターズ」
 言って、ドアノブをひねろうとした。
 「待て待て待て! 明らかに違うだろ!」
 俺は野田の腕をつかんで必死で制した。
 つーか、エンジェルバスターズってなんだ。
 「違ったか?」
 「当たり前だ。お前やっぱり覚えてないだろ」
 「今のは冗談だ。本当の合い言葉は……ザ・ゆりっぺと愉快な仲間達」
 ドアノブをひねろうとした野田の腕を叩き落とした。
 「貴様、そんなに俺の邪魔をしたいのか」
 「違うっていってんだろ! いい加減、ザ・○○○シリーズから離れろっ」
 やっぱりこいつはアホだ。
 そもそも合い言葉を知らずに、どうやって毎日校長室へ入っていたのだろうか。
 「合い言葉は私達の信念よ。野田くん、あなたの思い通りの言葉を言ってみなさい」
 背後からゆりが諭す。
 だが、ゆりの位置がやけに遠いように思える。
 「ありがとなゆりっぺ、ようやく思い出せたぜ」
 野田が再びドアノブを握った。
 「……信じていいんだな?」
 「当たり前だ」
 野田は大きく息を吸って、
 「いやっほーぅ、ゆりっぺ最高ー!」
 高らかに叫んでドアノブをひねった。
 「ばかっ、お前……!」
 「逃げて、音無くんっ!」
 ゆりの声をかき消すほどの大きい機械音が鳴り響き、その方向へ振り返ると、目の前には巨大な鉄の塊が。
 野田の大バカ野郎……。
 俺は全身の痛みと共に上空へ投げ出された。
 最後に見た光景は、心休まるほどに青かった空の色だった。



 「とばっちりってわけかよ……野田のアホ野郎めっ……」
 俺は頭を抱えた。
 頭痛がまだ治まらないのもそうだが、何よりあの時ゆりと同じ場所に待避していれば巻き添えを食わずにすんだのだ。
 「そういえば野田のやつはどこへ行ったんだ? 俺と一緒に吹っ飛ばされたはずだ」
 「とっくに起きて、作戦に行ったよ」
 ギターのネックをウエスで拭きながら、岩沢さんが答えた。
 あいつは無駄に身体が丈夫だし、俺よりも死になれているから復活も早いんだろうか。
 野田と日向が相打ちした時も、二人とも同じくらいのダメージだったのに野田の方が復活が早かった。恐らく個人差があるのだろう。
 「そういえば作戦はどうなったんだ。何時からだ?」
 「ヒトロクマルマル、とゆりが言っていた」
 16時00分か。壁に掛かっている時計を見ると、すでに16時30分を過ぎていた。
 「こうしちゃいられねぇ、天使が現れる前に早くいかねぇと! 作戦ってどんな内容だ? 俺の配置場所って聞いてるか? いや、直接日向か高松に聞いた方が早いか。それで作戦はどこで、」
 慌てて足下にあった上着を取って肩にかける。
 立ち上がろうとした時、岩沢さんに俺のおでこを軽くつつかれた。
 「あんたは休みだよ。ゆっくり寝てな」
 「え、休み……? どうして」
 どうしても何も戦力外通告に決まっている。
 なぜなら、ここにいないということは恐らく野田も日向も作戦に参加しているからだ。
 それで俺だけお呼びがかからないということは、遠回しに必要ないと言われているようなものだ。
 俺は大きくため息をついた。
 「そう落ち込むなよ。今回の作戦はそんなに重要なものじゃないから、あんたは参加しなくても大丈夫だってゆりが言っていたんだ。重要な作戦だったら、誰かしらに伝言を頼んであんたが起きた時にすぐ作戦参加できるように手配するはずでしょ?」
 言われればそうかもしれない。本当に重要な作戦ならば、多少ケガをしていようと強引に駆り出すのがゆりだ。特にこの世界では死という概念が無いからなおさらだ。
 そう思うことにしよう。
 「じゃああんたも作戦に呼ばれなかったのか?」
 岩沢さんはギターをケースにしまい始める。
 「今回は陽動が必要ないからな。私も休み」
 陽動が必要ないということはあまり大々的な作戦ではないのだろう。それでも、いつも集まっているメンバーはみんな駆り出されているようだが。
 ということは、この部屋には誰も戻ってくる事が無い。
 今更になって思う。この部屋に俺と岩沢さん、二人っきりじゃん。
 そう考えてしまうと、彼女の顔を見ることができなくなる。
 て、なに緊張してるんだ、俺は。
 「……そういえば、あんたと私、二人っきりだな」
 「あ、ああ、そうだな……」
 いとも簡単に言う。無駄に緊張している俺がアホらしく思えてくる。
 岩沢さんはギターケースを閉めて立ち上がると、ソファの上で座っている俺の元へ歩み寄ってくる。
 中腰になって、俺と顔の高さを合わせて向かい合った。
 「記憶ナシオ、これからヒマか?」
 「音無だ」
 「そうだったな。音無、これからヒマか?」
 「まぁこれといってやることは無いな」
 今回の作戦に俺は必要ないようだしな。
 「じゃあさ、これからちょっと付き合ってよ」
 岩沢さんが顔を近づけて言う。思わず少し顔を引いてしまう。それでもお互いの息がかかるくらいの距離に彼女の顔がある。
 「べ、べつにいいけど何をするんだよ」
 満面の笑みを浮かべて言う。
 「おもしろいことっ」
 顔を上げて、ギターケースを肩にかける。
 「さ、いくぞ」
 岩沢さんは校長室の扉を開け放った。
 「ちょっと待てよ、岩沢さん」
 俺は慌てて立ち上がる。
 「岩沢でいいよ。音無」
 背中越しにそう言って、彼女は早足で校長室を出て行った。
 「……あー、なんかいいように振り回されてるな、俺は……。待てよ、岩沢っ」
 その背中を追うように、俺は彼女の後を追った。





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